「私は疲れた」
「いらないものを捨て、つらいことをやめ、解放されたい」
「でもそうしたら何が残るの?大事なものも捨ててしまうの?そこから立ち直れるの?」
「いま、ここ、この場所、この状況から逃げたい」
「私はつらいんだ。私は頑張ってるんだ。誰か私を認めてくれよ」
「私を助けて。私を救い出して」
息が詰まりそう。
頭を抱えてうずくまって「うーうー」って唸れば周りは心配して「どうしたの?大丈夫?」って言ってくれるだろう。
部屋中のものをとっ散らかして「あー!!!」って叫べば「何かあった?大丈夫?」って心配されるだろう。
大泣きして「もう辛いの。助けて」ってすがれば「大丈夫?話してごらん」って言ってもらえるだろう。
私は心配されたいのだろうか。注目されたいのだろうか。
精神的に追い詰められてるのではなくて、自分で追い詰めているだけなのだろうか。
泣いてすがって心配されたって何も状況は変わらないのに。そんなこと、辛くなるたびにやってたって「あいつ大げさなんだよな」って思われてしまうのに。
でも私には守ってくれる誰かが必要で。自分で溺れていってしまう自分を引っ張り上げることが出来なくて。
頭の中が「あーあーあーあーあーー!」になってきたらヤバいサイン。
心配されたい。大事にされたい。愛して欲しい。見つけてほしい。
まるで小さな子供のよう。
私のもろいハートが壊れないように、大事にしてほしい。
どうして私はこうも弱いのだろう。
誰かに頼る以外に方法はないだろうか。
自分の足で立って歩いていけたら。
踏ん張るのが精一杯なのに。
傷だらけで擦り切れた足で、それでも歩いていく。
息ができなくなるまで、もう無理、もう無理、だれか私を止めて、って思いながら足を引きずって。
そんなことになんの意味がある?
私が笑いながらスキップして歩いていても、傷だらけの足を引きずって歩いていても、周りの人はその差に気づかないし、それぞれの早さでさっさと横を通り抜けていってしまう。
だれも気に留めたりしない。
みんな自分で歩くのにせいいっぱい。
私の代わりに歩いてくれる人も、支えて歩いてくれる人もいない。
私はひとりで歩いていかなければならない。自分の人生だから。
ボロボロになって、見て!私を!かまって!私に!なんてやっても意味がない。
私はなんのために傷ついているの?
息抜きの方法をだれか教えて。
細い針の上に立っているような、息苦しさ、張り詰めた心の糸。
まずい、まずいぞ。
何か手を打たねば。
精神科の門をくぐるのはもうごめんだ。
あんな薬漬けの日々、なんの改善にもなりゃしない。
薬がほしいんじゃない。
生き方を知りたいんだ。
心が楽になる生き方が知りたいんだ。肩の力を抜く方法を知りたいんだ。息のしかたを知りたいんだ。ストレスがたまったとき、何をしたらいいのかを知りたいんだ。
でなきゃまた同じところに戻ってきてしまう。
薬じゃ根本的な解決になりゃしない。
26年も生きてきて、未だに忘れる、息をする方法。
ここから逃げるでもなく、叫んで泣きわめくでもなく、楽に息をして、詰まった息を吐いて、また歩き出せるタフさを身につけたい、26の冬。