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混合性不安抑うつ障害、リストカットした日々、ODした日々、から立ち直った私

小学生の頃から優等生で、成績が良く、先生の手伝いをし、みんなの前で表彰され、親の手伝いを進んでやって、習い事もして、塾にも行って、という典型的いい子だった私。

 

みんなから褒められるのは嬉しかったし、勉強は簡単だったし、習い事も好きでやってた。自分は当たり前に頭が良くて、大人の手伝いも楽しくて、みんなに愛されていたし、友達もそこそこいたし、ゲームも外遊びもしてたし、このまま順調に大学行って留学して就職して活躍するのだと、子供心に自分の人生の成功を疑わなかった。

 

人生が傾き始めたの始めたのは小学6年性のときだ。姉が中学生になった。人見知りの姉は中学生になったことでストレスが増えたらしい。不機嫌になって私と喧嘩すると暴力を振るうようになった。

父親が病気になったり浮気したり、姉の不登校のことで姉を殴ったりした。

父親と母親が不仲になった。

姉は学校でうまくいかず、父親とうまくいかず、母親ともたまに喧嘩をして、その八つ当たりを私にするようになった。

 

母は、乱暴な姉に手がつけられなくなって、姉と喧嘩して一方的に殴られ蹴られの私に、「お姉ちゃんの機嫌直らないから、形だけでも謝って。あなたが大人になって。」と言った。私は両成敗だと思っても、ただ地雷を踏んだだけで悪いことはしてないのに、と思っても姉に謝るようになった。でなければ一方的に暴力を振るわれ、「うざい、消えろ、死ね」とことあるごとに暴言を吐かれた。

母親は姉を叱っても叩いてもなだめすかしても無駄だとわかると、ただ姉の機嫌のいいなりになった。姉の地雷を踏まないように家中びくびくしてた。母親はよく、私に言った「お姉ちゃんのようにはならないで」

 

家でもそんなだったのに、学校でも変化がおきた。連続満点をとってた小テストで、たまたまひとつミスして、私が98点をとった時のことだ。「なんで私ちゃん満点じゃないの?おかしいね」と友達に言われた。私だって間違えることはあるのに、私は満点じゃないとおかしいのか?ひとつもミスは許されないのか?

連続満点の記録がなくなった時点で、私の自信は失われた。

 

家にも居場所がない。

学校にも居場所がない?

 

私はまだ12歳だった。

それでも、時は過ぎて、中学生になった。部活を頑張ろうと思った。バスケ部に入った。成績が悪くても生活態度で褒められようと思った。毎朝早く行って校門で風紀を守る、風紀委員になった。

 

でも私は体が強くなかった。ストレスでお腹を壊す体質だった。体を動かすのは好きだったけど、体力はない方で、どちらかというと細くて体重もあまりないほうだった。

 

寒い冬、お腹を壊して、学校に早く行けなかった。風紀委員で立つ日だったのに、行けなかった。遅刻した。すべてが終わった。私はその日から不登校になった。泣きながら学校に行きたくないと言った。母親は姉に続く私の不登校で頭を悩ませた。家の中はさらに険悪化した。

仕事に行けない父親と、学校に行かない子供と、パートに出かける母親。

 

家庭という基盤がヒビだらけだった。

 

それでも私は調子の良い日には学校に行った。テストは学年10位内だった。最初は教室に入ったけど、だんだんと、カウンセラーさんのいる相談室にだけ行くようになった。不登校の子や心に問題を抱える子が、カウンセラーさんと過ごす部屋だった。

 

そこで給食を食べたり、勉強したり、たまにクラスの友達が顔を見にきてくれておしゃべりしたりした。

たまに部活だけにも行った。

厳しいバスケ部でやめていく友達も多い中、たまにしか練習にでない私でも、退部はしなかった。3年の最後までたまに練習して練習試合には行ったし、幽霊部員でも最後まで所属した。意地だった。

 

成績は学年30位近くまで落ちたけど、勉強も続けてたし、不登校したり学校に行ったりを繰り返して、修学旅行やイベントは必ず参加した。担任の先生に泣きながら家のことを相談したりもした。

 

習い事は続けられるのだけ続けていた。

 

ちなみに妹も私ほどではないが姉から暴言暴力をうけて不登校になった。

 

姉は中学を卒業すると通信制の高校に上がった。私も中学卒業すると単位制の高校にあがった。

 

家はもうだめで、父親と母親が別居を始めた。わたしは勝手に精神科に受診した。そのころはもう、死にたい、わたしはいらないんだ、腕にはハサミでつけた傷があった。

 

わたしは精神安定剤を飲むようになった。それからは母親と病院に行った。

母親は父親のことと子供3人の不登校・精神不安定のことと、家計のことで頭を悩ませた。持ち家はまだまだローンがあったし、収入柱の父親は働きに出られなかったのだ。体の病気のせいだったのか、浮気のせいだったのか、父親も精神的におかしかったのか、わたしは知らない。

 

姉からの暴言・暴力は増すばかりだった。姉もたぶん、両親のことや学校のことで悩んでいたんだと思う。ただ私が手近な相手だっただけだ。

 

私はリストカット、OD(処方された精神安定薬を20〜30錠一気に飲んだ)、さらに家出などで家族を困らせた。ODで救急車で運ばれ、胃洗浄したことも何度かあった。夜不安で眠れなくなり、睡眠薬も出された。薬は7〜10種類飲んでいたが、私がODするため、母親が鍵つき金庫で薬を管理して、毎食後必要な分だけ飲んだ。母親は近所のパートを昼のと夜のと掛け持ちでやって、ご飯のたびに家に帰ってきて子供たちに用意して、薬を出して、またパートに行った。

 

そんな生活で、私が高校2年のとき、父親と母親は離婚した。

そのときには私の希死念慮(自殺願望)も強くなり、私はしばらく、精神科の閉鎖病棟で過ごした。厳重に鍵がほどこされ、暴れるとベッドに鎖で手足を繋がれた。あまりにひどいので、私は電気ショック療法という、全身麻酔して電気を流すという治療を受けた。

ほとんど覚えてない。

 

母親は片方のパートが倒産で仕事がなくなり、ハローワークに通って別の仕事を見つけ、また昼夜掛け持ちで働いた。

姉は高校卒業すると正社員で働き始めたが人間関係がうまくゆかず、しばらくして退社した。

私は高校卒業したあと、バイトを始めてはやめ、始めてはやめを繰り返した。やめる理由は、お腹を壊してバイトに行けず、またバイト先で精神的に具合が悪くなり倒れたりが多かったからだ。やめろと言われる前に自分で辞めますと言った。それでも、家にいたくなかったか、居場所が欲しかったか、何もしていないのが嫌だったのか、バイトは懲りずに応募して始めてはやめを繰り返した。

 

区の保健センターで開かれる、デイケアという活動にたまに参加した。精神的に不安定な人たちが、ボランティア的にゴミ拾いしたり、絵を描いたり、工作したりして2時間くらい過ごすやつだ。区の保健師さんたちのもとで開かれた。

 

そんなこんなで、私は19歳だった。

障害年金2級を受給していた。

障害者手帳も欲しかったけど、母親が言ったのか先生が言ったのか、不利だから?不名誉だから?手帳はもらわなかった。

 

夫と出会ったのはそんな19歳の頃だった。20歳目前だった。

 

デートではよく私は倒れた。

電車でたった3駅のとこですら、夫にしがみついてないとだめだった。夫は私の何が良かったんだろう。

 

話をきいてくれて、一緒にお茶飲んだりして、世間を何も知らない私に、初めてスタバに連れて行ってくれ、初めて牛丼屋に連れていってくれ、池でボートに乗ったり、本屋行ったり、ただ街をぶらぶら散歩したりした。

 

20歳になったら、バーに連れていってくれ、お酒を飲んだり、知らない人と話をしたり、夫の友達と飲んだりして、楽しかった。たこ焼きパーティしたり、餃子パーティしたり、劇を見に行ったり、いろんなことをした。

 

家以外の居場所ができて、私がパニックになったときも背中をさすったり、息を落ち着かせたりしてくれて、リストカットしたときも、ただ消毒してくれた。

私は大切にされることで、だんだん回復していった。

 

徐々に薬も減らしていけた。

うそのように良くなっていった。

過保護だった母親は、私が22時過ぎても外出してたり、家に帰ったときに酒臭かったりすると憤慨したけれど、私はもう20歳超えたのだし、夫が家までちゃんと送ってくれた。

 

そのうち、私は家を出ることになる。

夫と同棲を始めた。

そして婚約した。

結婚した。

 

精神安定剤は減らしていって、ついにやめた。精神科に通うこともなくなった。

 

それでもたまにパニックになったり不安で泣いたりした。

夫は全部受け止めてくれた。叱ってくれた。教えてくれた。生き方を。

 

何より、家の環境から出れたことが、1番大きかった。私は殴られることも暴言を吐かれることもなく、ただ「生きてていいのかな?いてもいいのかな?何をしても怒られないのかな?殴られないのかな?」と思った。

最初の頃はフラッシュバックして「怒らないで、殴らないで」なんて怯えていたけど、だんだんと「ああ、いいんだ。生きてていいんだ。」と思うようになった。

 

そうやって、緊張の糸がほぐれて、押し込めた黒い気持ちやドロドロの傷口が癒えていくたびに、私は泣いた。安心して泣いた。辛かったと泣いた。今まで言えずに我慢してきたことをだんだん吐き出していった。心の傷口は裂けたり腫れ上がったりしながらも、だんだん治っていった。私の中の小さな私はだんだん癒えていった。

 

パニックになることも、不安で泣くことも減っていった。

薬のせいでぼんやりしていた頭も、グレーのベールに包まれてた視界や思考回路も、頭の中で「死ね、おまえはいらない、自分なんていらない、死ねばいい」と言っていたうるさい声も、消えていった。なくなっていった。世界は開けていった。周りの人すべてが私を拒絶して、すきあらば攻撃してこようとしているような感覚もなくなっていった。私は敵対心の対象じゃなかった。私の中の「みんな」はあんなに攻撃的だったのに、本当は無関心だった。

私はいてもいい。何してもいい。意外と怒られない。

 

私は健常者にもどった。

障害年金もストップした。安定剤もいらない。精神科も行かない。普通にしていられる。

 

12歳から完全回復まで、22歳、10年間だった。

23歳で子供に恵まれ、今年また26歳にして2人目の出産にこぎつけた。

 

私の混合性不安抑うつ障害は、ただ単に、機能不全家族から、自分を守るためのバリアだったのかもしれない。

あの環境下で生き抜くためにもがいていた証だったのかもしれない。

今会う人たちは、私がそんな精神不安な人だったとは、まったく思わないだろう。

育児もつつがなくやっている。

結婚生活も安定している。

私はいま幸せだ。

 

私の人生の歴史の中で、あの異常な家庭状況、精神状態があった事実は消せない。でも、今はもう思い出しても大丈夫だ。大変だったなーくらい。

 

姉も今は仕事が順調だし、24歳の時に和解した。今はちょっとのことじゃ怒らないし、暴言吐いたり殴ったりもしない。姉もあのときは荒れていた、と認めた。姉も今じゃ普通の人だ。

 

普通に遊びにきてくれる、仲のいい姉妹に戻った。

 

10年の試練で失くしたものも大きかった。普通の家庭で育ちたかったし、青春ももっと満喫したかった。大学に行きたかったし、留学もしたかった。

 

でも、その後に得たものはもっと大きかった。夫に出会って結婚できたし、可愛い子供にも恵まれた。ちょっとやそっとじゃ折れない根性も手に入ったし、物事の考え方も、いろいろ身についた。

満点成績のまま、成長していてもどこかで挫折は味わっただろうけど、大きく遠回りしたぶん、私はいろいろなものを見てこれたと思う。

 

私の傷だらけの人生は、傷はそれはそれで光って綺麗だ。

私はいまここに生きている。

それだけで素晴らしいのだ。

 

諦めなくてよかったと思う。

ちなみに、病気の間、いろんな思いをノートに書き溜めていた。

母親や姉に言えないこと、言いたかったこと、死にたいこと、助けてほしいこと、不安なこと、全部ノートに書いた。精神科の先生に必ず毎回見せた。先生は、なんでもいいから書いてごらん、書くのを続けることが大事だと言っていた。

 

夫にもデートのたびに見せていたように思う。

 

もし同じような状態の人がいたら、ブログでもノートでもいいから、書くことをお勧めする。書きなぐってもいいし、私のノートのように

ぐちゃぐちゃの線でページを埋めて、破いたり穴があったりしてもいいと思う。

 

死にたくなってもいい。諦めないでほしい。辛いのは頑張ってる証拠だ。痛いのは生きてる証拠だ。辞めたくなってもいい。辞めたいこと全部やめて、放り投げていい。ただ、生きていてほしい。生きているのがつらくても、生きていてほしい。

この先幸せになれる保証なんてどこにもないけど、少なくとも生きていれば機会はある。自分次第だ。

 

生きていいんだよ。

生きてさえいればいいんだよ。

何もできなくても、何もかもダメでも

生きていればいいんだよ。

大丈夫だよ。

安心していいよ。

思いっきり泣いて思いっきり吐き出していいよ。思いっきり抱きしめてあげるんだ自分のことを。

 

命はかがやいている。