能天気な悩みごと。

双極性障害*男子3人育児

新生児育児*生後5日目*黄疸治療

まだ昨日退院したばかりの身体にムチうって、今朝も病院に授乳&搾乳届けに行ってきた。

 

血中ビリルビンは、とりあえず下がったので、光治療器は外したとのこと。体重も前日比+80g増えていたとのこと。授乳してみると、かなり元気に飲んだ。

 

今日一日と明日の朝の診察結果で、ビリルビンが下がれば明日の朝退院、またぐっとあがれば光治療再開とのこと。

 

寒空の下、1日1回でも退院するのは、産後の身体にはきつい。

身体が痛い。ろくに歩けないのでタクシーを使う。

 

身体を痛めて産んだ子が、手元にいないというのは、想像以上に精神的に、いや、本能的にまいってしまう。

理屈じゃない。嘆いているわけじゃない。本能的に動物的に、ただただ、つらい。

 

身体も心もボロボロ。

 

夜中、悪夢にうなされる。

 

明日退院できるくらい、黄疸が良くなっていますように。

 

 

新生児育児*生後4日目*新生児黄疸

黄色人種であるわれわれ、日本人。の赤ちゃんは、黄疸になりやすいと言われている。

 

肌が黄色く見える黄疸。

赤ちゃんは肝臓の機能が未熟で、血中にビリルビンという物質が増えてしまう。生後4、5日目からピークで、1週間くらい黄疸が強くなりやすい。らしい。

 

血中のビリルビンがたまりすぎると、核黄疸という、脳性マヒなど後遺症が残る可能性が高くなってしまう。

 

そうならないために、赤ちゃんに緑色や青色の光をあてる、「光線療法」というのが40年くらい前から治療法として確立されている。治療による合併症などもほとんどない、赤ちゃんも苦しかったり痛かったりしない治療方法だ。

眩しい光をあてるので、赤ちゃんに目隠しをすることがあるくらいで、光を浴びてる赤ちゃんはすやすや眠るし、辛い思いをする治療ではない。(黄疸が軽度で背中から当てる場合は目隠しは必要ない。重度になると、保育器に入り全面的に光をあてるので、赤ちゃんは裸ん坊で目隠しをされ、全身に光を浴びる。さらに重度になると、光治療ではなく、交換輸血する)

 

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↑背中から当てる光線治療。

普通のベビーコットに機械を敷いて、電源をひいて使う。赤ちゃんは専用の服を着ている。痛かったり熱かったりはしない。目隠しも必要ない。

この服のまま抱き上げて、授乳をすることが出来る。お母さんと一緒にいれる。

 

**

 

 

上の子が、生後すぐ黄疸が高くなり、交換輸血一歩手前の、全身に浴びせる光線治療のためNICUに入った。赤ちゃんの退院も2日延びた。

万一は交換輸血しますという書類にサインもした。交換輸血せずに済み、光治療でビリルビンが下がったので退院できた。しかし、肌は真っ黄色だったし、NICUに入る直前はぐったりして意識朦朧、母乳を欲しがらず寝てばかりで、ちっとも泣かなかった。

 

母親がO型、赤ちゃんがA型かB型のときに、稀に黄疸が強くなる血液型不適合の黄疸だった。その血液型の組み合わせが必ず黄疸が強くなるわけじゃなくて、何らかの原因で母子間の血液が混ざり、母体の免疫反応が起こり、赤ちゃんの赤血球を攻撃する抗体ができてしまって黄疸が強くなるらしい。普通は母体間で血液は混ざらないので、その血液型の組み合わせでも、過敏になる必要はあまりない。私と上の子は、たまたま何かが悪かったのだ。

 

 

今回産んだ2人目も、生後4日目、私の退院の日の朝に黄疸が高くなり、赤ちゃんの退院が最短で2日延びることになった。私は赤ちゃんに別れを告げ、先に1人で退院した。赤ちゃんは背中から光を当てる、軽度の光線治療を始めた。あくまでまだ生理的な黄疸の範囲だ。上の子ほどぐったりもしていないし、ちょっと元気はないけど、よく母乳を飲み排泄がある。とりあえず背中からの光線治療で間に合う程度だ。生理的な黄疸のピークで、ちょっと高めのビリルビン数値が出たから、赤ちゃんがしんどくならないように、早めに治療をしましょうということだ。

私からも、出産した時に上の子の黄疸が強かったこと、2人目も心配なこと、とにかくよくチェックして早め早めの対応をしてほしいことを病院側に伝えてあったので、今回光線治療が始まったことは、病院側がしっかり早めの対応をしてくれているということだ。

 

 

とは言え、長い切迫早産の末、なんとか37週0日に、なんとか2500g超えて産んだ子だから、一緒に帰れないのは辛かった。心配してたけど、やっぱり黄疸でちゃったんだ。一緒に帰りたかった。でも赤ちゃんが辛くならないために、重症になる前に、治療して、安心して家で育てられるようにの入院なんだ。

 

そんな風に、悲しい気持ちと、これでいいんだ、きっとすぐ良くなる、という気持ちが混ざり合って、涙が出た。産後は感情の振れ幅が大きいので、深刻になるほど悲しくなくても、大丈夫って思っていても、涙は出るし、精神的に不安定になりやすいのだ。

泣きたくて泣いてるわけじゃない。すっごく辛いわけじゃない。産後はそういう時期なのだ。

周りにはそれを、知っていてほしい。

 

私はとりあえず、毎日ビリルビンの治療状況や、検査結果を聞き、赤ちゃんに授乳&搾乳した冷凍母乳を届けに病院に行くことになった。

 

退院した今日も、夕方また病院に行って、授乳をして、搾乳して母乳を置いてきて、治療の説明を受けてきたところだ。産後の体には辛いが、生後1週間くらいの黄色い初乳という母乳は、赤ちゃんに大切な成分がたくさん含まれているので、飲ませたほうが良いのだ。搾乳分も赤ちゃんにあげてもらい、足りない分は病院がミルクで補ってくれる。

 

治療は、黄疸のピークが終わるまでか、しっかりビリルビンが下がるのを確認するまでという形になった。光線治療をしているうちに、赤ちゃんの機能が発達して、ビリルビンの代謝が良くなれば自然とよくなる。せいぜい、生後1週間〜10日程度で良くなるらしい。今日は4日目。治療は長引いても1週間程度だ。

 

赤ちゃんが無事にお腹の中で育って、無事に生まれ、無事に育つというのは奇跡なのだ。お産は最後まで何があるかわからない。生まれてからも何があるかわからない。

 

2人目だからって気持ちに余裕があるわけじゃない。今はただただ、赤ちゃんが早く良くなり、早く退院するのを願うばかりだ。

混合性不安抑うつ障害、リストカットした日々、ODした日々、から立ち直った私

小学生の頃から優等生で、成績が良く、先生の手伝いをし、みんなの前で表彰され、親の手伝いを進んでやって、習い事もして、塾にも行って、という典型的いい子だった私。

 

みんなから褒められるのは嬉しかったし、勉強は簡単だったし、習い事も好きでやってた。自分は当たり前に頭が良くて、大人の手伝いも楽しくて、みんなに愛されていたし、友達もそこそこいたし、ゲームも外遊びもしてたし、このまま順調に大学行って留学して就職して活躍するのだと、子供心に自分の人生の成功を疑わなかった。

 

人生が傾き始めたの始めたのは小学6年性のときだ。姉が中学生になった。人見知りの姉は中学生になったことでストレスが増えたらしい。不機嫌になって私と喧嘩すると暴力を振るうようになった。

父親が病気になったり浮気したり、姉の不登校のことで姉を殴ったりした。

父親と母親が不仲になった。

姉は学校でうまくいかず、父親とうまくいかず、母親ともたまに喧嘩をして、その八つ当たりを私にするようになった。

 

母は、乱暴な姉に手がつけられなくなって、姉と喧嘩して一方的に殴られ蹴られの私に、「お姉ちゃんの機嫌直らないから、形だけでも謝って。あなたが大人になって。」と言った。私は両成敗だと思っても、ただ地雷を踏んだだけで悪いことはしてないのに、と思っても姉に謝るようになった。でなければ一方的に暴力を振るわれ、「うざい、消えろ、死ね」とことあるごとに暴言を吐かれた。

母親は姉を叱っても叩いてもなだめすかしても無駄だとわかると、ただ姉の機嫌のいいなりになった。姉の地雷を踏まないように家中びくびくしてた。母親はよく、私に言った「お姉ちゃんのようにはならないで」

 

家でもそんなだったのに、学校でも変化がおきた。連続満点をとってた小テストで、たまたまひとつミスして、私が98点をとった時のことだ。「なんで私ちゃん満点じゃないの?おかしいね」と友達に言われた。私だって間違えることはあるのに、私は満点じゃないとおかしいのか?ひとつもミスは許されないのか?

連続満点の記録がなくなった時点で、私の自信は失われた。

 

家にも居場所がない。

学校にも居場所がない?

 

私はまだ12歳だった。

それでも、時は過ぎて、中学生になった。部活を頑張ろうと思った。バスケ部に入った。成績が悪くても生活態度で褒められようと思った。毎朝早く行って校門で風紀を守る、風紀委員になった。

 

でも私は体が強くなかった。ストレスでお腹を壊す体質だった。体を動かすのは好きだったけど、体力はない方で、どちらかというと細くて体重もあまりないほうだった。

 

寒い冬、お腹を壊して、学校に早く行けなかった。風紀委員で立つ日だったのに、行けなかった。遅刻した。すべてが終わった。私はその日から不登校になった。泣きながら学校に行きたくないと言った。母親は姉に続く私の不登校で頭を悩ませた。家の中はさらに険悪化した。

仕事に行けない父親と、学校に行かない子供と、パートに出かける母親。

 

家庭という基盤がヒビだらけだった。

 

それでも私は調子の良い日には学校に行った。テストは学年10位内だった。最初は教室に入ったけど、だんだんと、カウンセラーさんのいる相談室にだけ行くようになった。不登校の子や心に問題を抱える子が、カウンセラーさんと過ごす部屋だった。

 

そこで給食を食べたり、勉強したり、たまにクラスの友達が顔を見にきてくれておしゃべりしたりした。

たまに部活だけにも行った。

厳しいバスケ部でやめていく友達も多い中、たまにしか練習にでない私でも、退部はしなかった。3年の最後までたまに練習して練習試合には行ったし、幽霊部員でも最後まで所属した。意地だった。

 

成績は学年30位近くまで落ちたけど、勉強も続けてたし、不登校したり学校に行ったりを繰り返して、修学旅行やイベントは必ず参加した。担任の先生に泣きながら家のことを相談したりもした。

 

習い事は続けられるのだけ続けていた。

 

ちなみに妹も私ほどではないが姉から暴言暴力をうけて不登校になった。

 

姉は中学を卒業すると通信制の高校に上がった。私も中学卒業すると単位制の高校にあがった。

 

家はもうだめで、父親と母親が別居を始めた。わたしは勝手に精神科に受診した。そのころはもう、死にたい、わたしはいらないんだ、腕にはハサミでつけた傷があった。

 

わたしは精神安定剤を飲むようになった。それからは母親と病院に行った。

母親は父親のことと子供3人の不登校・精神不安定のことと、家計のことで頭を悩ませた。持ち家はまだまだローンがあったし、収入柱の父親は働きに出られなかったのだ。体の病気のせいだったのか、浮気のせいだったのか、父親も精神的におかしかったのか、わたしは知らない。

 

姉からの暴言・暴力は増すばかりだった。姉もたぶん、両親のことや学校のことで悩んでいたんだと思う。ただ私が手近な相手だっただけだ。

 

私はリストカット、OD(処方された精神安定薬を20〜30錠一気に飲んだ)、さらに家出などで家族を困らせた。ODで救急車で運ばれ、胃洗浄したことも何度かあった。夜不安で眠れなくなり、睡眠薬も出された。薬は7〜10種類飲んでいたが、私がODするため、母親が鍵つき金庫で薬を管理して、毎食後必要な分だけ飲んだ。母親は近所のパートを昼のと夜のと掛け持ちでやって、ご飯のたびに家に帰ってきて子供たちに用意して、薬を出して、またパートに行った。

 

そんな生活で、私が高校2年のとき、父親と母親は離婚した。

そのときには私の希死念慮(自殺願望)も強くなり、私はしばらく、精神科の閉鎖病棟で過ごした。厳重に鍵がほどこされ、暴れるとベッドに鎖で手足を繋がれた。あまりにひどいので、私は電気ショック療法という、全身麻酔して電気を流すという治療を受けた。

ほとんど覚えてない。

 

母親は片方のパートが倒産で仕事がなくなり、ハローワークに通って別の仕事を見つけ、また昼夜掛け持ちで働いた。

姉は高校卒業すると正社員で働き始めたが人間関係がうまくゆかず、しばらくして退社した。

私は高校卒業したあと、バイトを始めてはやめ、始めてはやめを繰り返した。やめる理由は、お腹を壊してバイトに行けず、またバイト先で精神的に具合が悪くなり倒れたりが多かったからだ。やめろと言われる前に自分で辞めますと言った。それでも、家にいたくなかったか、居場所が欲しかったか、何もしていないのが嫌だったのか、バイトは懲りずに応募して始めてはやめを繰り返した。

 

区の保健センターで開かれる、デイケアという活動にたまに参加した。精神的に不安定な人たちが、ボランティア的にゴミ拾いしたり、絵を描いたり、工作したりして2時間くらい過ごすやつだ。区の保健師さんたちのもとで開かれた。

 

そんなこんなで、私は19歳だった。

障害年金2級を受給していた。

障害者手帳も欲しかったけど、母親が言ったのか先生が言ったのか、不利だから?不名誉だから?手帳はもらわなかった。

 

夫と出会ったのはそんな19歳の頃だった。20歳目前だった。

 

デートではよく私は倒れた。

電車でたった3駅のとこですら、夫にしがみついてないとだめだった。夫は私の何が良かったんだろう。

 

話をきいてくれて、一緒にお茶飲んだりして、世間を何も知らない私に、初めてスタバに連れて行ってくれ、初めて牛丼屋に連れていってくれ、池でボートに乗ったり、本屋行ったり、ただ街をぶらぶら散歩したりした。

 

20歳になったら、バーに連れていってくれ、お酒を飲んだり、知らない人と話をしたり、夫の友達と飲んだりして、楽しかった。たこ焼きパーティしたり、餃子パーティしたり、劇を見に行ったり、いろんなことをした。

 

家以外の居場所ができて、私がパニックになったときも背中をさすったり、息を落ち着かせたりしてくれて、リストカットしたときも、ただ消毒してくれた。

私は大切にされることで、だんだん回復していった。

 

徐々に薬も減らしていけた。

うそのように良くなっていった。

過保護だった母親は、私が22時過ぎても外出してたり、家に帰ったときに酒臭かったりすると憤慨したけれど、私はもう20歳超えたのだし、夫が家までちゃんと送ってくれた。

 

そのうち、私は家を出ることになる。

夫と同棲を始めた。

そして婚約した。

結婚した。

 

精神安定剤は減らしていって、ついにやめた。精神科に通うこともなくなった。

 

それでもたまにパニックになったり不安で泣いたりした。

夫は全部受け止めてくれた。叱ってくれた。教えてくれた。生き方を。

 

何より、家の環境から出れたことが、1番大きかった。私は殴られることも暴言を吐かれることもなく、ただ「生きてていいのかな?いてもいいのかな?何をしても怒られないのかな?殴られないのかな?」と思った。

最初の頃はフラッシュバックして「怒らないで、殴らないで」なんて怯えていたけど、だんだんと「ああ、いいんだ。生きてていいんだ。」と思うようになった。

 

そうやって、緊張の糸がほぐれて、押し込めた黒い気持ちやドロドロの傷口が癒えていくたびに、私は泣いた。安心して泣いた。辛かったと泣いた。今まで言えずに我慢してきたことをだんだん吐き出していった。心の傷口は裂けたり腫れ上がったりしながらも、だんだん治っていった。私の中の小さな私はだんだん癒えていった。

 

パニックになることも、不安で泣くことも減っていった。

薬のせいでぼんやりしていた頭も、グレーのベールに包まれてた視界や思考回路も、頭の中で「死ね、おまえはいらない、自分なんていらない、死ねばいい」と言っていたうるさい声も、消えていった。なくなっていった。世界は開けていった。周りの人すべてが私を拒絶して、すきあらば攻撃してこようとしているような感覚もなくなっていった。私は敵対心の対象じゃなかった。私の中の「みんな」はあんなに攻撃的だったのに、本当は無関心だった。

私はいてもいい。何してもいい。意外と怒られない。

 

私は健常者にもどった。

障害年金もストップした。安定剤もいらない。精神科も行かない。普通にしていられる。

 

12歳から完全回復まで、22歳、10年間だった。

23歳で子供に恵まれ、今年また26歳にして2人目の出産にこぎつけた。

 

私の混合性不安抑うつ障害は、ただ単に、機能不全家族から、自分を守るためのバリアだったのかもしれない。

あの環境下で生き抜くためにもがいていた証だったのかもしれない。

今会う人たちは、私がそんな精神不安な人だったとは、まったく思わないだろう。

育児もつつがなくやっている。

結婚生活も安定している。

私はいま幸せだ。

 

私の人生の歴史の中で、あの異常な家庭状況、精神状態があった事実は消せない。でも、今はもう思い出しても大丈夫だ。大変だったなーくらい。

 

姉も今は仕事が順調だし、24歳の時に和解した。今はちょっとのことじゃ怒らないし、暴言吐いたり殴ったりもしない。姉もあのときは荒れていた、と認めた。姉も今じゃ普通の人だ。

 

普通に遊びにきてくれる、仲のいい姉妹に戻った。

 

10年の試練で失くしたものも大きかった。普通の家庭で育ちたかったし、青春ももっと満喫したかった。大学に行きたかったし、留学もしたかった。

 

でも、その後に得たものはもっと大きかった。夫に出会って結婚できたし、可愛い子供にも恵まれた。ちょっとやそっとじゃ折れない根性も手に入ったし、物事の考え方も、いろいろ身についた。

満点成績のまま、成長していてもどこかで挫折は味わっただろうけど、大きく遠回りしたぶん、私はいろいろなものを見てこれたと思う。

 

私の傷だらけの人生は、傷はそれはそれで光って綺麗だ。

私はいまここに生きている。

それだけで素晴らしいのだ。

 

諦めなくてよかったと思う。

ちなみに、病気の間、いろんな思いをノートに書き溜めていた。

母親や姉に言えないこと、言いたかったこと、死にたいこと、助けてほしいこと、不安なこと、全部ノートに書いた。精神科の先生に必ず毎回見せた。先生は、なんでもいいから書いてごらん、書くのを続けることが大事だと言っていた。

 

夫にもデートのたびに見せていたように思う。

 

もし同じような状態の人がいたら、ブログでもノートでもいいから、書くことをお勧めする。書きなぐってもいいし、私のノートのように

ぐちゃぐちゃの線でページを埋めて、破いたり穴があったりしてもいいと思う。

 

死にたくなってもいい。諦めないでほしい。辛いのは頑張ってる証拠だ。痛いのは生きてる証拠だ。辞めたくなってもいい。辞めたいこと全部やめて、放り投げていい。ただ、生きていてほしい。生きているのがつらくても、生きていてほしい。

この先幸せになれる保証なんてどこにもないけど、少なくとも生きていれば機会はある。自分次第だ。

 

生きていいんだよ。

生きてさえいればいいんだよ。

何もできなくても、何もかもダメでも

生きていればいいんだよ。

大丈夫だよ。

安心していいよ。

思いっきり泣いて思いっきり吐き出していいよ。思いっきり抱きしめてあげるんだ自分のことを。

 

命はかがやいている。

新生児育児*生後2日目*母乳とミルク

切迫早産で自宅安静→1ヶ月入院→37w0d、2556gで誕生。

 

小さな産声をあげてくれました。

 

黄疸もとりあえず大丈夫、体温調節もでき、呼吸も問題なし。体重も2500gを超えてくれたので、ひと安心。

保育器に入らずに母子同室がスタートしました。

 

ただ、身体が小さいので、すぐ体力がなくなるらしく眠っていることが多いです。おしっこやうんちで汚れても、「ふんにゃ〜」とひと声泣いてまたすやすや。2800ある子や3000ちかい子の泣き声にくらべると小さいし、泣き方も弱い。

 

母乳を飲んでも、片乳のんで疲れて寝てしまいます。

30分後にまた欲しがって「ふんにゃ〜」とひと声泣くので、反対の片乳をあげます。

 

夜は1時間まとめて寝れればいいほうで、片方を30分かけてあげ、30分後にまた片方あげ、を繰り返します。

2時間かけて両方がっつり飲むと、そこから2時間は寝てくれるのでそこで私も寝ます。

 

私は母乳の出が良く、おっぱいも吸いやすい理想的なおっぱいだと褒められました。

それでも疲れてしまう赤ちゃんは、やっぱり小さいからでしょうね。

 

新生児は生後、一旦生理的に体重が落ちるのが普通なのですが、私の赤ちゃんは体重の減りが激しかったらしく、欲しがるだけ授乳+3時間おきにミルク20飲ませるように、と指導があり、生後2日目までそれであげていました。減りすぎた体重を元に戻して維持するためと、低血糖予防だそうです。

 

母乳飲んで疲れて寝たところを無理やり起こしながら必ずミルク20あげなくてはならないので、辛かったです。しかも、おっぱいでるのに、パンパンになるのに、ミルクをあげなければいけない。

 

ミルクは腹持ちがいいので、ミルクを飲ませるとしばらく寝てくれて助かるといえばそうだけど、パンパンのおっぱいは辛いです。飲んでくれるのなら、おっぱいを飲ませたい。

 

助産師さんに相談したら、体重を増やすためだから〜と最初は難しい顔をされました。でもおっぱいはパンパンです。飲んでくれれば楽になるけど。

おっぱいでるのにミルクをあげるのは嫌だ、となんども訴えると、「とりあえず母乳どれだけ飲んでるか測りましょう」と言ってくれました。

 

母乳をあげる前の体重とあげた後の体重を測ると、飲んだ量がわかるそうです。

 

片乳あげて寝ちゃう、その前後で測ったら12g増えてました。助産師さんは4g増えてればいいかなと思ってたそうなので、びっくりされました。

その30分後にまた片方あげたら8g増えてました。

 

結果、30〜40分に25〜30g母乳飲んで増えてるので、ミルク20はしなくて良いということになりました。

 

ただ、母乳は腹持ちがあまり良くないので寝る時間が少なくなるのと、しっかり母乳あげてから3時間以上時間があかないように、必ずおっぱいあげてくださいと指導を受けました。

 

それで一晩過ごして、また明日の体重で決めることになりそうです。

 

元気に大きくなってほしいし、出る限りは母乳で育てたい。と思いました。

37w0d 出産!

分娩室に入り、だんだんきつくなる張りにスーハースーハーしながら、

朝ごはんをパイナップルとおにぎり少しと卵焼き少し、合間合間に食べました。

 

夫と息子は

まだ3〜4時間かかりそうなので、朝ごはん食べてからきて、と言ってありました。

 

ところがあっという間に9センチまで子宮口が開き。

もう、痛い痛い、産みたい、叫んだ時には開大MAX。

 

助産師さんたちも驚くほどはやく、まだお産の準備が済んでませんでした。いろいろ機材を用意したり、分娩台を開脚させたりシーツをひいたり、慌ただしくしているあいだに、「もう全開だからいきんでいいよー」といわれ、痛い痛い叫びながらいきみました。

 

 夫に電話しても、繋がらなくて、何度が繋がらなくて、録音に「もう生まれるからね!」と言い残して、いきみました。

あっという間に頭が股に挟まり、絶叫。赤ちゃんの心拍も落ち、「赤ちゃん苦しいから深呼吸して!」と言われるも過呼吸気味、なんとか深呼吸して痛むと同時いきんで、慌ただしくするりと生まれました。

 

36w6d 朝11時退院、夜10時再入院。

37w0d 午前9:40過ぎに生まれました。

2560くらいあった、元気な男の子。

 

折り返し入院出産でした。

舞い戻った夜は「前駆かな」と言われ、夜中0:30には「まだ4センチ、昼過ぎかなー」といわれ、

朝7:30には「やっと6センチ、昼前かなー」と言われ、

そのまま9:40すぎに出産に至るという、スピードお産?でした。

 

ちなみに産まれた2分後に夫と息子が到着。

産声はとりあえずぎりぎり聞いたみたいです。

 

 

ではしばらく休みますので、一度この辺で。

37w0d 出産か③出血

朝6時

トイレに行く

ふきとったらティッシュに鮮血

けっこうついた

おしるし

 

初産婦のおしるしはお産まで日にちがあることがおおいが

経産婦のおしるしはもう出産のサインだと

助産師さんに言われた気がする 

今日中に産めるならいいな…

 

張りは4〜5分

 

はやくこいこい